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スコットランドの東岸に、緩やかなS字を描くように切れ込む込むテイ湾。その北岸に、スコットランド第4の都市ダンディがある。この町の歴史上で最も大きな火災だといわれているのが、1906年の7月19日に起こった、ウイスキーブレンド会社のジェームズ・ワトソン社保税倉庫の大火災だ。
倉庫があったのは、キャンドルレーン通りがシーゲート通りに突き当たるT字路の東側。出火時刻は18時20分頃と推定されており、まる2日燃え続けたという。炎は近隣の建物にまで延焼し、一帯は見るも無残な姿に変わりはてた。
貯蔵されていた約100万ガロン(455万リットル)のウイスキーとラムは全焼し、燃えさかるウイスキーはまるで川のようにダンディ通りを流れていったという。建物ばかりでなく大量のウイスキーまでもが失われてしまったため、この火事は「大人たちが泣いた日」などと比喩されることもある。なお出火原因は、突き止められていない。
この火災に関する記録は、これまではジェームズ・ワトソン社と深く関わる資料は見つかっていなかったらしい。しかしこの度、ワトソン社の従業員が書いたと思われる絵葉書を、歴史家のノーマン・ワトソン氏が発見したという。カナダのスカーバラに住む人物に宛てたこの絵葉書には、建物内部の惨状がリアルに描写されている。以下はその全文だ。
「この絵葉書に写っているのは、キャンドルレーン通りの一番端にある建物です。火事のとき、私たちはちょうどその場所にいました。壁や柱が次々に崩れ落ちていき・・・、それはもう本当にすさまじい光景でした。手は火傷とすすで真っ黒け、脚はむくんでパンパンです。樽に寝かせていた酒は、どんどん流れ出していきました。私たちは外に出て、キャンドルレーン通り沿いにあるC・R・バクスター(イングランドのランカシャー州に本拠を置くビールメーカー)の店の屋根に、消火ホースを抱えてのぼりました。そして夜の10時から翌朝の5時まで、ずっと放水を続けたのです。そんな騒ぎの中で、会社の仲間たちは散り散りなってしまいました。その週末は、私たちは結局休みなしになってしまいましたよ。」
消火作業が手間取った原因だが、ジェームズ・ワトソン社の終業時刻が17時で、出火したころにはほとんどの従業員が帰宅したあとだったためでもあるという。同社の関係者の目撃談が、ほとんど残されていなかったのも同じ理由によるものだろう。
なおジェームズ・ワトソン社は、今でも存続している。1815年に設立され、1923年にDCLに買収されるまでは4つの蒸留所、バルメナック(1824-)、グレン・オード(1838-)、パークモア(1894-1988)、そしてプルトニー(1826)のオーナーだった。また19世紀末から20世紀の初頭にかけては、クラガンモア蒸留所の原酒をすべて買い取っていたという。現在はディアジオ社の系列会社だ。